2007年12月17日
クリスマス キャロル
文、写真: 美山治 (ミヤマ オサム)
Text & Photo: Miyama Osamu
2007年12月17日午後7時、オフィスからの帰り道、パサイ市(Pasay City)の自宅近くにあるサリサリストアにビールの配達を頼みに行った。既にこの店主とは阿吽の呼吸の域に達しつつある。目で挨拶しながら、1000ペソを渡して「明日ね」と言うだけで、110ペソのお釣りが帰って来る。翌日の帰宅時にはサンミゲルビール(MMG紹介記事)1リットル瓶(グランデ サイズ)1ダースと1カートンのマルボロ ライトが届いている。これが店の留守番をしている他の女の子だったりすると、注文内容や配達日を説明しないといけない。でも、この方がタガログ語の練習にはなるかもしれない。
そろそろ近づいたクリスマスに備えて「クリスマスも開いてますか?」と聞くと、やっているとのことで、念のため「ほんと?25日も?」と言うと、もちろんやってるという。店の周りにたむろしている若者衆も「開いてる、開いてる」と口々に言う。ああ、サリサリ ストアはクリスマスも頑張っているんだなあと思った。
下手くそなタガログ語でやり取りしていると、背後でおもちゃの太鼓を叩きながら子供たちが「くーりすます、くりすます」みたいな歌を歌っているのが聞こえた。振り返ると子供が5、6人で私を取り囲んでいた。ああ、そうかそうだよなあ。クリスマスキャロルを歌ってお小遣いをもらおうという例のあれだ。でもお金を渡すのはどうもなあと一瞬躊躇した。というのはクリスマスキャロルとはいえ、実際に行われる行為はいわゆる物乞いとほとんど変わらないことが多いからだ。
先ず一般的な物乞いについて話をしよう。大抵のパターンはこうだ。子供が低い声を作って「Sir....イサン ペソ ラ〜ン」と寄って来る。動作はいたってステレオタイプだ。まず下唇を突き出した渋い顔でお腹をさする。次に親指、人差し指、中指で何かをつまむような形を作って口元に持って行く。お腹をさするのは「お腹がすいた」のしぐさで、口元に運ばれる手は「何かを食べたい」を意味する。その後、眉毛を八の字型にしてできるだけ悲しそうな上目遣いで右手をこちらへ差し出す。差し出された手のひらは無論「お金ちょうだい」のサインだ。時々、一連の動作を終える前に自嘲的な苦笑いを浮かべる子も見かける。こういう子は物乞いに向いてないと思う。
「とてもとてもお腹がすいているから1ペソでいいからちょうだい」という意味を表現するお約束ムーブではあるけれど、私はあまり乗れない。動作がいささか様式化され過ぎているからだ。経験上この子たちにアメ玉やチューインガムをあげても喜ぶことはあまり無い。もらったアメ玉の包みを急いで開けて口に放り込むなんてことはまずなく、あめ玉は取り敢えずポケットに入れて「まあ、それはいいからお金ちょうだい」とばかりに、事務的な一連の動作に戻る。空腹を表現するムーブと彼らの具体的な欲求がシンクロしてなくて、なんだか白々しい。彼らに必要なのはその瞬間の空腹を満たすための食べ物ではなく、現金収入だ。彼らが貧しいというのは事実だが、物乞いの行為自体は現金収入を求める「お仕事」である。
話をキャロルに戻そう。キャロルの場合であっても、歌こそ歌うもののそれ以外は悲壮感を漂わせた物乞いスタイルになっているケースが多々ある。そういうとき、私はひどくげんなりする。「クリスマスの特別なお小遣いをもらう行為」が、いつの間にか「クリスマスに乗じた物乞い」にすり替わっているからだ。
両方とも働かずしてコインを得るという意味においては非常によく似た行為である。クリスマスの歌を歌うのも、悲しげなお約束ムーブを演じるのもエンターテイメントとしては本質的には同じだ。また「余剰分としてのお小遣い」も「仕事で得た収入」も同じコインゆえ金額に大差はない。慢性的な貧しさのため「特別な余剰分」という意味自体薄いからだ。「キャロル」が「物乞い」にすり替わるのはこのせいだ。
でも今日出くわしたこの子供たちを見た時、私の印象はちょっと変わった。お揃いの太鼓を持ち、お揃いの白のタンクトップを着ている。ちびっ子キャロル隊の即席ユニフォームだ。彼らは満面の笑顔で歌い、どことなく晴れがましさまで見て取れる。
ここでふと思い出したのが日本の地方祭での記憶だ。私は愛媛の松山で育ったのだけど、そこの地域では中学生になると10月のお祭りで御神輿を担いで家々を回る。うちの地域だけかもしれないが、その時のユニフォームは学ランだ。お祭りということもあって当時流行のボンタン、長ラン、短ラン、頭は整髪料ベタベタか金髪という出で立ちだった。非日常の歌舞いた姿だったように思う。
家々を廻り、各家の人が用意したお菓子を段ボール箱単位でもらう。推測だが、おそらくもっと以前はお菓子ではなく現金だったのではないかと思う。というのは家々を回っていると、昔からその地域に住んでいるような雰囲気の老人が家の奥から出て来ることがあって、封筒に入ったお金を御神の担ぎ手である我々中学生1人1人に渡そうとすることがあり、神輿行列に付き添っている大人がこれを止めるという光景を度々見たからだ。近代だか現代だかの日本風の教育的な配慮から現金がお菓子に姿を変えたのかもしれない。
話を戻す。神輿の担ぎ手は、もらったお菓子を神輿について回っているさらに年の小さな子供たちに配る。13、4歳の中学生が、その日ばかりはお兄さん役というか大人扱いしてもらえる。回った家々の大人の人からは「今年もよくうちに来てくれました」と言われ、お菓子を配る時に小学生からは「お兄さんが僕たちにお菓子をくれる」と思われるのだ。なんとも晴れがましい気持ちになった記憶がある。
話をまた戻す。神輿という宗教的シンボルを根拠としてお菓子を貰うこの地方祭と、宗教的な歌を歌うということを根拠としてお金をもらうキャロルは、どことなく似ている。それは現金がお菓子に姿を変えても同じことだ。私はこれを単なる物乞いだとは思いたくない。
キリスト教のことはよくわからないけれど、クリスマスキャロルというのも本当はそういうものであって、物乞い祭りじゃないんだろうなあと感じた。でも物乞い祭り風キャロルをよく見かけるのは少し悲しい。なんだかんだでコインを上げた後の「サンキュー」の大合唱って結構かわいい。どうやら今年はスクルージにならなくて済んだみたいだ。
【参考記事】
マニラ当局、路上でのクリスマスキャロルに禁止令
(AFPBB News) 2007/12/10
... フィリピンのマニラ首都圏開発庁(Metropolitan Manila Development Authority、MMDA)は9日、街頭でクリスマスキャロルを歌うことを「安全上の理由で」禁止するとともに、違反者は検挙すると警告した。
交通安全を監督する同庁のBayani Fernando長官はラジオで、この禁止令は子どもと運転手を守るためのものと説明。10日に発効するとしている。
マニラでは毎年クリスマスシーズンに、スラムの子どもたちなどが「にわか聖歌隊」となり、交通量の多い道路の交差点でクリスマスキャロルを歌い、信号待ちをしている車の間を行き来して運転手らにお金をせびる。しかし、前年にはそうした子ども1人がトラックにはねられて死亡するなど、交通事故と隣り合わせという危険もはらんでいる。...
【参考リンク】
「クリスマス・キャロル」 (Wikipedia)